特設サイト「東京音楽学校の卒業演奏会」

東京藝術大学 未来創造継承センター 芸術資源活用プロジェクト(2023年度実施)
プロジェクトタイトル「東京音楽学校における演奏会記録の保存・活用に向けたプラットフォームの作成」

コラム

 卒業演奏会における西洋音楽のプログラムを鳥瞰してみると、明治20年代と明治30年代とでは異なる点がある。まず、明治20年代は合唱が「唱歌」と記載されており、日本語の「作歌」(「作詞」とほぼ同義。)でうたわれている。また、「独唱」は見受けられない。しかし、明治32(1899)年からは、プログラムに「唱歌」の記載はなく、「合唱」に変更されている。そして明治33(1900)年には「独唱」がプログラムに入り、原語で歌唱されていることがわかる。その後、独唱は原語でうたっていても、合唱は日本語でうたう場合が多く、大正9(1920)年の卒業演奏でもモーリッツ・ハウプトマン Moritz Hauptmann (1792 – 1868)が作曲した合唱曲を「作歌」「訳歌」でうたっている。明治20年代の「唱歌」はピアノ伴奏やオルガン、弦楽器による伴奏であったが、明治30年代には管弦楽伴奏による合唱がたびたび演奏されている。

 卒業演奏会も含めて、東京音楽学校の演奏会では、教員が作った作品が演奏されることもあった。明治26(1893)年の卒業演奏会では、ルドルフ・ディットリヒ Rudolf Dittrich(1861-1919、東京音楽学校には1888-1894在職)が曲を作り黑川眞頼が詞をつけた《夏の夜》がうたわれている。また、大正9(1920)年の卒業演奏会のプログラムには、蒲原有明の詞に信時潔(1887~1965、東京音楽学校・東京芸術大学音楽学部には1910-1952在職)が作曲した合唱曲《おもひで》も入っている。昭和11(1936)年の卒業演奏では、本科作曲部の学生の作品とともに、教員であった下總皖一(1898-1962、東京音楽学校・東京芸術大学音楽学部には1934-1952在職)が江南文三の詞に曲をつけた《八十島かけて》がうたわれている。R. ディットリヒ、信時、下總は、いずれも東京音楽学校で和声や作曲を教えており、信時や下總の合唱曲は卒業演奏以外でも同校の演奏会におけるレパートリーの一部になっていた。音楽学校の授業や行事との関連から卒業演奏について考えることもできるであろう。

(仲辻 真帆)