明治時代の東京音楽学校における留学・海外派遣

 彼らは外国でどのようなことを学んだのか?

 

 

藝祭2022、テーマは「ふれる」・・・

9月2日〜9月4日まで開催中の藝祭2022。特別企画として今回は、「外国の音楽にふれた」明治時代の留学生たちの姿をご紹介します。

藝大では多くの学生が海外で学んでいます。明治時代では社会的背景、インフラの整備状況、人々の価値観等が違う中で、どのように学んでいたのか──歴史的史料から、彼らの留学生活を少し覗いてみましょう。

 

  1. 東京音楽学校から欧米への留学
        ┗伊澤修二、幸田幸、瀧廉太郎
  2. 諸外国から東京音楽学校への留学

 

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1. 東京音楽学校から欧米への留学

0. 伊澤修二のボストン留学  (ブリッヂウォートル師範学校)

 

後に東京音楽学校初代校長となった伊澤修二(1851-1917)は、文部省に入り、愛知師範学校長を経て、明治8年(1875)「師範学科取調べ」のためアメリカに留学しました。伊澤はこの留学を機に、音楽研究施設の構想を練りはじめます。

マサチューセッツのボストン郊外にあるブリッヂウォートル師範学校に入学。当時を回顧した手記には、普通の学科や語学はなんとかついて行けたが音楽だけはどうにもならなかった、と綴られています。

 

従来の余の経歴談を読んだ人は伊澤は音楽に於ては、最も得意であったらうと想像するであらうが、事実は全くそれと正反対で、音譜などが殆どものにならず1 2(ヒーフー)だけは良いが3(ミー)となり4(ヨー)となれば皆上がり過ぎて、先生に叱られ自分は尚ほ種々に苦心したけれ共、それでも殆ど唱歌にならなかった。

(『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第1巻』pp.13-14)

 

ある時校長に呼ばれ、「日本の音律は米国のものと違うのだからできなくても無理ない。今後は唱歌を免除してやるから安心せよ」と言われたが、免除などしてもらっては国へ帰れない、と三日間泣いて悲しんだということです。

しかし、一念発起した伊澤は、ボストン在住の初等学校音楽監督兼教師のL. W.メーソン(1818-1896)を訪ね、毎週金曜日にメーソン宅でレッスンを受けて苦手を克服します。この体験は伊澤に音楽の教授法を打ち立てなければならないという義務感を奮い立たせました。帰国後、彼は目賀田種太郎らと連名で文部省に音楽取調掛(東京音楽学校の前身)創設を建議し、音楽取調掛御用掛、36歳で東京音楽学校長となります。近代日本の教育界に多方面で先駆的な役割を果たしました。メーソンは後にお雇い外国人として音楽取調掛に招聘されました。

 

留学中の伊澤修二

 

音楽教師 ルーサー・ホワイティング・メーソン

 

 

1. 幸田幸のベルリン留学 (ベルリン音楽大学)

 

幸田露伴、延の妹でヴァイオリニストの幸田幸(後の安藤幸)はドイツに留学し、当時ベルリン音楽大学の校長であった巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムに師事しました。

明治32年(1899)9月3日、「維也納府(ウィーン)」に到着。明治35年4月に「伯林(ベルリン)音楽大学(校)」に入学し、私費で約3ヶ月留学期間を延長、同年12月までヨアヒムとその弟子のカール・マルケースの元で勉強したことが幸の「留学始末書」(『在外研究員関係書類 明治33年~昭和9年』より)で報告されています。

幸はヨアヒムに師事したかったのですが、よほど優秀な者でなければそれは叶いません。また彼は当時弟子を取っておらず、自分につきたければベルリン高等音楽学校を受験するようにと言い、幸は受験し見事合格します。1年間助手のカール・マルケースのもとで学んだのち、ヨアヒムのレッスンを受けられるようになりました。ヨアヒムのレッスンは言葉よりも自ら弾いて示す場面が多かったようです。ヴァイオリンだけでなくピアノ、室内楽、オーケストラの実技や和声学や対位法などの授業にも欠かさず出席して懸命に勉強しました。また、同じく留学中の音楽学校の後輩、瀧廉太郎とも交友がありました。(萩谷由喜子著『幸田姉妹〜洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』pp.129-132)

 

 

幸田幸の留学始末書(『在外研究員関係書類 明治33年~昭和9年』より)

 

姉の延もボストンのニューイングランド音楽院に1年、1890年からウィーン音楽院に5年留学し、ヴァイオリンを専攻する傍らピアノや和声学なども学びました。ボストンではヴァイオリンをヨアヒムの弟子のエミール・マールに師事。ニキシュ、ダルベア、ヘッキング、サラサーテなどの演奏を耳にしたことが印象に残っていると後年振り返っています。(『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』pp.1315-1316)

ウィーンではフリッツ・クライスラーらに教えたヘルメスベルガーⅡ世に師事しました。また、フレーデリク・ジンガーにピアノを、学校で習う和声だけでは足りず、ロバート・フックスからは個人的にも対位法と作曲法を習いました。

 

 

2. 瀧廉太郎のライプツィヒ留学(ライプツィヒ音楽院)

 

明治34年(1901)には瀧廉太郎もドイツのライプツィヒへ渡り、10月1日にあるライプツィヒ音楽院の入試へ向けて6月から受験勉強に励みます。

ドイツ語を「教師フューゲ氏」に、ピアノを「ヴィラセノール氏」に就て学びましたが、入学前にライプツィヒ音楽院教授のローベルト・タイヒミュラー(以下の資料では「タイミュルラー」「タイヒミュルラ」と表記されている)にもピアノの指導を受けていたことが「申報書」に記されています。瀧が熱心にレッスン等の傍聴をし、師も余った時間を使って彼に教えていた様子が伺えます。

教授タイミュルラー氏ノ厚意ニヨリ同氏ノピヤノ授業時間ヲ毎週火曜金曜ニ特別ニ傍聴シ又毎週同両日午後六時ヨリ開カルゝ同校生徒ノVortragフオルトラーグヲ傍聴ス。同教授ハ時々本務授業時間ノ残余ヲ以テ特ニ予ヲ教授ス。(瀧廉太郎 従明治34年6月至明治34年7月 申報書)

 

その後試験には無事に合格、ライプツィヒ音楽院に入学を果たします。音楽院ではピアノをタイヒミュラーに、コントラプンクト(対位法)をヤーダスゾーン(以下の資料では「ヤダソン」と表記されている)に、音楽史および美学をクレッチマルに師事したと記されています。

しかしながら、瀧は11月末に風邪を拗らせて入院を余儀なくされます。実際、代筆された明治34年8月〜35年1月の申報書でも、宿所は「ライプチヒ大学附属病院上等室二十五号」となっています。

明治35年(1902)7月に帰国命令を受け、帰国後は大分の父母のもとで療養に専念していましたが、明治36年(1903)23歳10ヶ月の短い生涯を閉じました。

 

 

瀧廉太郎 従明治34年6月 至明治34年7月 申報書(『在外研究員関係書類 明治33年~昭和9年』より)

瀧廉太郎 従明治34年8月 至明治35年1月 申報書(『在外研究員関係書類 明治33年~昭和9年』より)

瀧廉太郎 帰朝命令書(『在外研究員関係書類 明治33年~昭和9年』より)

 

 

2. 諸外国から東京音楽学校への留学

 

東京音楽学校では実は多くの留学生が日本人学生と一緒に学んでいました。西洋音楽の本場ではない日本に海外から西洋音楽を学びにくる留学生がいたというのは少し意外に感じるかもしれません。

東京音楽学校在籍者の氏名が掲載されている『東京音楽学校一覧』には、「清国」「朝鮮」「台湾」「比律賓島(フィリピン)」「米国」「英国」「獨国」などからの留学生たちの氏名も載っています。また、外国人留学生関係の事務的な文書は『台湾留学生関係書 外国人生徒関係書類(朝鮮 清国留学生)』にまとめられており、例えば学堂楽歌の活動家で近代中国音楽史の重要人物である曾澤霖(曽志忞)など、57名の留学生が言及されています。

当時日本は積極的に留学生を誘致し、中国側も効率的な日本留学を歓迎していました。さらに1905年に科挙が廃止されると、清朝学部は科挙にかわる資格として留学を重視したため、留学者は爆発的に増え続けました。東京音楽学校に多くの清国留学生がやってきたのにはこのような背景があります。清国人留学生の大半は選科生で、音楽と美術、政治、科学、医療等の別の専門を並行して勉強していた兼学者が多くを占めており、他校の在籍者も多くいました。(尾高暁子著「留学生管理文書の概要」「附論:旧東京音楽学校管理文書にみる外国人・外地生徒」pp. 316-328)

 

『台湾留学生関係書 外国人生徒関係書類(朝鮮 清国留学生)』表紙

 

「曽澤」の文字がみられる

 

 

※旧漢字は新字に改めた。

参考文献:

東京藝術大学百年史刊行委員会編『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第1巻』、音楽之友社、昭和62年。

東京藝術大学百年史編集委員会編『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』、音楽之友社、平成15年。

萩谷由喜子著『幸田姉妹〜洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』、株式会社ショパン、2003年。

尾高暁子著「留学生管理文書の概要」「附論:旧東京音楽学校管理文書にみる外国人・外地生徒」、『東京音楽学校の諸活動を通して見る日本近代音楽文化の成立:東アジアの視点を交えて』、平成25年、pp. 312-356。