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村野弘二
Koji MURANO

大正12(1923)年7月30日兵庫県生まれ。父貞朗の手記「弘二の死を知って」によれば、村野は中学三年生頃、独学で作曲に熱中し始めた。中学校を卒業する少し前から、東京音楽学校甲種師範科を大正10年3月に卒業し甲南高等女学校や旧制芦屋中学校で音楽を担当した池尻景順(1894-1987)に作曲、ピアノ、唱歌を師事した。村野家の近所にはソプラノ歌手・小島幸(昭和10年甲種師範科卒、旧姓竹内)が住んでいた。東京音楽学校入学前の作品として、島崎藤村作詩《小兎の歌》、詩曲《秋はむなしうして》などがある。

昭和17(1942)年4月東京音楽学校予科に入学。作曲を下總皖一(團伊玖磨と同期・同門)、理論を橋本國彦、ピアノを永井進に師事。翌18年の本科1年の秋、学生の徴兵延期措置が撤廃され11月15日仮卒業となる(実際は休学扱い)。学校側は急遽「出陣学徒出演演奏会」を行い、村野はそこで「葛の葉の伝説による歌劇《白狐》第二幕白狐「こるは」の独唱」の作品発表を行った。入隊までのわずかな期間に自作数曲をSPレコード3枚に録音し、12月1日京都伏見の陸軍通信隊に入隊した。

翌19年5月から9月まで神奈川県相模大野の陸軍通信学校で通信兵の訓練を受ける。同年10月下旬に門司より出航し、11月ルソン島マニラ上陸した。通信任務に就くが、米軍侵攻後は、飢餓と慣れない天候に苦しみながら爆撃や現地ゲリラの攻撃から逃げる日々に衰弱し、終戦も知らずブンヒャンにて昭和20(1945)年8月21日未明、自らの喉に銃口を向けた。

作品はピアノ独奏曲、歌曲、室内楽におよぶが、楽譜の大半は疎開先の福井で空襲に遭い焼失した。《白狐》他数曲が神戸の実家で焼失を免れた。

Works of Koji MURANO

歌曲《重たげの夢》(三好達治詩)

中林敦子氏所蔵

歌曲《重たげの夢》独唱、チェロ又はヴァイオリン、ピアノのために。作曲年月日は不明。詩は三好達治の詩集『一點鐘』(いってんしょう)(昭和16年)所収「海六章」の一篇。「Lento(緩やかに)♪=72~76」

「sempre cantabile(いつも歌うように)」。清書のほか、チェロのパート譜、1オクターブ高いヴァイオリンのパート譜、他にも複数の譜面がある。ピアノのゆるやかなうねりにチェロが誘われ、「重たげの夢はてしなくうつうつと眠るわたつみ」と歌う。SP盤の録音は2年先輩 戸田敏子の独唱、1年先輩の井上みどりのチェロ、村野自身のピアノによる。作曲年月日不明。

「歌曲《重たげの夢》」詳説ページへ

藝大ミュージックアーカイブ

戦没学生のメッセージ~戦時下の東京音楽学校・東京美術学校トークイン・コンサート
村野弘二:《重たげの夢》
バリトン: 田中俊太郎、チェロ:成田七海、ピアノ: 松岡あさひ

独唱曲《小兎のうた》(島崎藤村詩)

中林敦子氏所蔵

《小兔のうた》の譜面には、「島崎藤村詩」「小島先生に」「Felix Philharmonic Library」「F.V.P.No.4」「T.59」「昭和十六年六月三日」と記される。村野が中学校を卒業して間もない頃の作品である。小島先生への献辞があり、メンデルスゾーンの名前を冠した自分の「文庫」の番号を付けるなど、村野が作曲家として生きる決意が伝わってくる。村野の作曲を考える上で、小島先生の存在はきわめて重要であると思われるので、東京音楽学校時代の記録から記してみよう。

小島幸(旧姓竹内)は、昭和10年3月に東京音楽学校甲種師範科を卒業した。通常、卒業演奏会には本科卒業生のみが出演するが、異例なことに竹内幸は師範科卒業生でただ一人、ソプラノ独唱でヴァーグナー作曲、歌劇《タンホイザー》中の〈エリザベートの祈り〉を演奏した。さらに昭和13年3月の研究科修了演奏会でメッツォソプラノとしてシューベルト作曲《魔王》を独唱しているのだが、竹内は昭和11年度と12年度に、研究科ではなく聴講生として在籍していた。東京音楽学校の規則では、研究科に入学できるのは「本科卒業者」で、それ以外の者でも試験により同等の学力ありと認められれば「許可スルコトアルヘシ」とされたが、彼女は聴講生として勉強を続け、研究科の修了演奏会に出演した。

よほど実力が認められていたのであろうが、東京音楽学校の卒業演奏会の歴史でも異例中の異例である。小島幸は日本音楽コンクールに入賞し、数々のオペラにソプラノ歌手として活躍し、昭和61年、神戸市の文化功労者(藝術)に選ばれた。平成19年12月に97歳で世を去った。村野が「小島先生に」作品を捧げた昭和16年頃は結婚し神戸に住んでいたのであろう。

 

作曲家志望の青年にとって、自分が書いた曲を、一流のソプラノ歌手が本格的な歌唱で目の前で歌ってくれたら、これほど幸せなことはあるまい。実際に歌われるのを聴くことで、自ら気付き、自分の耳を育てることになる。小島先生からは音楽上の助言も貰えたのではなかろうか。《小兔のうた》から《白狐》の〈こるはの独唱〉に至るまで、村野が声楽作品を書く際には、その時々に小島幸先生の歌が耳元にあったのではなかろうか。

島崎藤村の「小兔のうた」は、藤村が明治31(1898)年7月に木曽福島で一夏を過ごしたときの詩で、同年12月に刊行した第三詩集『夏草』に含まれる。

主題は畑に出没する小兎だが、自然界の扱い方は前作の『若菜集』や『一葉集』とは異なり、農民が小兎に麦畑を荒らされて心配するさまを、農民の側から客観的に詠っている。装飾的な要素も控えめに、より写実的になっている。農民の心情と、すばしこい小兎の動きが作曲のポイントと言えようか。

村野は農民と小兎の、深刻だが滑稽味もあるかけひきを、「快速調」で、ピアノ前奏のホ短調、四分の二拍子、軽やかで素早い動きに託す。「歯切れよく」と記された歌のパートは冒頭から「ゆきてとらへよ」をスタッカートで技巧を聴かせ、前打音を小節(こぶし)のように効かせながら小兎のすばしこさと、追う農民のかけ合いで進んでいく。ここまではいわば説明的な“語り”である。対照的に「たわにみのりし穗のかげを/みだすはたれのたはむれぞ」「ゆふづゝ沈む山のはの/こだまにひゞくはたけうち」はト長調に転じ、流れるような旋律で、農夫の心情が歌われる。基本的には西洋音楽の和声学に則っているが、近代の日本の作曲家が、日本語の詩を生かす作品の創出を模索したように、《小兎のうた》では歌詞を生かすための工夫から日本的な旋法を取り込んだのであろうと考えられる。

《小兎の歌》高精細画像ページへ

藝大ミュージックアーカイブ

藝大21 戦没学生のメッセージⅡ トークイン・コンサート
村野弘二:独唱曲《小兎のうた》
メゾソプラノ:山下裕賀、ピアノ:松岡あさひ

オペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉

村野の「学徒出陣」と〈こるはの独唱〉

村野弘二(大正12[1923]年7月30日〜昭和20[1945]年8月21日)は昭和17(1942)年東京音楽学校予科に入学し、本科作曲部に進んだ翌昭和18年10月2日の「在学徴集延期臨時特例」(勅令第755)により12月「学徒出陣」となる。例年卒業式に卒業演奏会を行っていた同校では、在学中に出陣する学徒のため、11月13日、校内奏楽堂にて第149回報国団演奏会を「出陣学徒出演演奏会」と銘打って開催した。有志19名のうち1名を除き声楽や専攻楽器で出演した。例外の1名が、自作を発表した村野弘二であり、演奏された作品がオペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉であった。その2日後、東京音楽学校は49名**の出陣学徒の仮卒業式を執り行って生徒を送り出した。(**記録調査から暫定される人数)

現存する村野の作品は中学校時代まで辿る。音楽学校入学後はいっそう作曲に精励したと推測されるが、在学中の作品のほとんどが疎開先の福井県で空襲に遭い焼失したとされる。〈こるはの独唱〉は「出陣学徒出演演奏会」のために村野が《白狐》の必要なページのみ手元に残し、日本を離れる時に神戸の実家に預けて焼失を免れたものである。作曲年月日は記されず不詳。作品の表紙か曲頭か末尾に記されていた可能性もあろう。
仮卒業式を終えた村野は、入隊までの慌ただしいスケジュールの中、〈こるはの独唱〉を含む4曲の録音を行った。SP音源は現在、ご遺族が開設したサイトで公開されている。そのうち《君のため》を歌っているのは作曲者自身である。

「〈こるはの独唱〉」詳説ページへ

藝大ミュージックアーカイブ

藝大21 戦没学生のメッセージⅡ トークイン・コンサート
村野弘二 : オペラ《白狐》より〈こるはの独唱〉
メゾソプラノ:永井和子、ピアノ:森裕子