鬼頭恭一 Kyoichi KITO

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大正11(1922)年6月10日愛知県の酒問屋に生まれる。両親から家業を継ぐことを期待されていたが、家族に内緒で音楽の勉強を始め、昭和16(1941)年9月に東京音楽学校選科に入学した。作曲を細川碧、ピアノを水谷達夫、声楽を橋本秀次に師事し、翌17年4月東京音楽学校予科に入学し、翌18年4月本科作曲部に進む。作曲を信時潔、理論を橋本國彦、ピアノは選科から引き続き水谷達夫に師事した。入学前の学習歴は入学書類により、担当教員は、当時の教員ごとの個人レッスン表に基づく。

同年10月在学徴集延期臨時特例により11月15日仮卒業。12月大竹海兵団に入団、三重海軍航空隊、築城[ついき]海軍航空隊、神町[じんまち]航空隊を経て霞ヶ浦海軍航空隊にて昭和20(1945)年7月29日、開発中の日本初の液体燃料ロケット戦闘機「秋水」の練習機での飛行訓練中の事故により殉職した。同僚からの伝聞では突然前方を航空機が通過したのを避けようとして掩体壕に激突したという。選科在学中の昭和17年2月に同い年の従兄・佐藤正宏がビルマで戦死し、作曲時期は不明だがその魂に《鎮魂歌》を捧げた。空襲で焼失した実家とともに在学中までの楽譜も失われたが、東京の佐藤家で空襲を免れた楽譜や鬼頭自身が入隊後に所持したノートなどがわずかに残された。

戦後に佐藤正宏氏の弟・佐藤正知氏と、鬼頭恭一氏の妹・明子氏が結婚され、明子氏より兄・恭一氏の楽譜、写真類、書簡等が本学大学史史料室に託された。佐藤正宏、鬼頭恭一両氏の履歴・軍歴等の収集には佐藤正知氏のお世話になった。恭一氏の遺品は弟・哲夫氏により靖國神社遊就館に奉納されており、そのご子息・鬼頭正明氏のご協力により本学でのデジタル化と公開に至った。

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Works of Kyoichi KITO

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「正宏君の英魂に捧ぐ」との献辞がある。佐藤正宏は大正11(1922)年3月10日名古屋生まれ。6月生まれの恭一にとって三ヶ月違いの従兄である。軍人だった父の任地に伴い、正宏は内地に加え平壌や京城など各地の小・中学校に転校する中で、恭一と同じ県立愛知第一中学校に1年半在学し親交を深めた。昭和15(1940)年9月陸軍士官学校卒業、陸軍少尉。丸亀の歩兵第一一二聯隊付。翌年陸軍中尉。翌16年11月南方作戦に出発し、昭和17(1942)年2月24日ビルマ国にて戦死した。

作曲の時期は、後述の「表紙の消された文字について」を勘案し、早ければ鬼頭の東京音楽学校予科入学前、遅ければ同じ年の夏から秋頃と考えられる。ヘ長調、楽器指定のない、コラール風の17小節の曲である。譜面にあるAdagio(ゆっくり)、Grazioso(優美に)、Espressivo(感情をこめて)、dolce(やさしく)等の言葉は、正宏氏と曲への気持ちそのものであろう。楽譜は東京の佐藤家で焼失を免れた。靖國神社遊就館蔵。

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「2604.10.30~2604.11.3完成 築城空にて」。皇紀2604年は昭和19(1944)年で「アレグレット」と同年の作品。譜面の最後に清水史子という作詩者名と「雨」の詩が書かれている。詩は婦人雑誌に掲載された読者の投 稿作品との伝聞があり、当時の婦人雑誌5誌にあたったが、確認に至らず、作詞者についても未詳である。小雨がけむり橘のかおる初夏(はつなつ)、南に散った「ますらを」の形見が女性のもとに届く。その哀しみは抑制されたた言葉に託され、歌曲《雨》は、初夏の情景に女性の哀しみを写し込み、劇的に歌い上げる。「《カルメン》のような血のかよった人間的なオペラが書きたい」と妹に語った、オペラ作曲家・鬼頭の片鱗が見えるだろうか。昭和50年9月、三宅悦子のソプラノと鬼頭の妹・佐藤明子のピアノが録音され、平成27年7月、本学オープンキャンパスのリハーサルにて演奏、同年8月名古屋のコーラスグループ「ココロニ」演奏会で公開初演。原本は靖國神社遊就館蔵。

佐藤正知様(正宏様令弟)、佐藤明子様(恭一様令妹)より資料提供とご教示、鬼頭正明様(甥御様)、讃井優子様(讃井智恵子様の御子息嫁御)、岡崎隆様のホームページより情報をいただきました。

歌曲《雨》詳説ページへ

藝大21戦没学生のメッセージⅡトークイン・コンサート
鬼頭 恭一:《雨》
永井和子:メゾソプラノ、森裕子:ピアノ

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NOTE
五線ノート
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楽譜浄書

『無題(アレグレット ハ長調)』
『女子学徒挺身隊』

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