明治12(1879)年に文部省に音楽取調掛が置かれ、翌年には初のお雇い外国人 Luther Whiting Masonがアメリカより招聘されました。音楽取調掛の実績をもとに、明治20年には東京音楽学校が開校しました。これら二つの教育機関が東京藝術大学音楽学部の前身です。音楽取調掛と東京音楽学校は外国人教師の招聘に力を注ぎ、全体では43名の外国人教師が採用されました。その方々のプロフィールや担当科目などをご紹介いたします。

令和二年(2020)年7月 東京藝術大学音楽学部大学史史料室

  1. ルーサー・ホワイティング・メーソン[ルーサル・ホワイチング・メーソン]
  2. フランツ・エッケルト
  3. ギヨーム・ソーヴレー(ウィレム・ソーブレー)[ギョーム・ソーブレット]
  4. ディクソン夫人 [ヂクソン夫人]
  5. ルドルフ・ディットリヒ [ルードルフ・ヂツトリヒ]
  6. アンナ・ベルタ・マリア・ティーツェ[ヨハンナ・ベルタ・マリア・チーチェ]
  7. エミリー・ソフィア・パットン [エミリー・ソフヒャ・パットン]
  8. アダ・ベアトリス・ブロクサム[アーダー・ビートリース・ブロックスハム]
  9. ラファエル・フォン・ケーベル [ラッフェール・フォン・コィベール]
  10. ノエル・ペリ[ノーエル・ペリー]
  11. アウグスト・ユンケル
  12. アンナ・レール[ラール、ラー]
  13. ヘルマン・ハイドリヒ
  14. マリー・カイゼル
  15. シャルロッテ・フレック [シァロッテ、シアロッテ]
  16. ハインリヒ・ヴェルクマイスター[ハインリッヒ・ウェルクマイステル]
  17. ルドルフ・ロイテル
  18. ハンカ・ペツォルト[ペツオルド、ペッツォルト、ペツォールド]
  19. パウル・ショルツ
  20. グスタフ・クローン[グスターフ]
  21. ヨゼフ・ホルマン
  22. ウィリー・バルダス
  23. マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ [レーヴエ、レーウエ、レーウェ]
  24. フェリックス・ディック [デュック]
  25. ヨセフ・カガノフ(レオニード・コハンスキー)
  26. チャーレス・ラウトロプ [シャーレス・ラウトルップ、シャールス・ラウトルップ、チャールズ・ラウトルップ]
  27. ロベルト・ポラック [ローベルト・ポラーク]
  28. クラウス・プリングスハイム
  29. レオ・シロタ
  30. マリア・トル
  31. ヘルマン・ヴーハープフェニヒ [ウーハーペニヒ、ヴーハーペニヒ、ヴーハープフェン二ヒ]
  32. セロン・エルワース・ジョンソン (バスター・ジョンソン)
  33. パウル・ヴァインガルテン [ワインガルテン]
  34. ウィリー・フライ
  35. ワルター・シュレーター
  36. ハンス・シュヴィーガー [シュビーガー]
  37. ローマン・ドゥクストゥルスキー(ロマン・ドゥクソン)
  38. アレキサンダー・モギレフスキー [アレクサンドル]
  39. レオニード・クロイツァー
  40. ヘルムート・フェルマー
  41. リア・フォン・ヘッセルト [ヘッサート]
  42. マンフレート・グルリット [マンフレッド]
  43. ディーナ・ノタルジャコモ [ディナ・ノタルヂャコモ]
東京音楽学校在職時期を表します
担当授業の内容を表します。
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Luther Whiting Mason (1818-1896)
ルーサー・ホワイティング・メーソン[ルーサル・ホワイチング・メーソン]
明治13〜15(1880〜1882)
唱歌、器楽(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、管絃楽)、和声学の特別講義

1818年、アメリカ合衆国メイン州ターナーに生まれる。音楽教育家。ボストンで初等音楽教育に実績をあげ、明治13(1880)年に音楽取調掛の初めてのお雇い外国人として招聘された。明治15(1882)年までの2年あまりの来日中に、唱歌の指導、器楽(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、管絃楽)の指導、和声学の特別講義のほか、『小学唱歌集』編纂、ピアノ調律、オルガン試作など、西洋音楽にかかわることを全般的に担当した。休暇には北海道、日光、関西の教育事情の視察も行った。
帰国後は再びボストンを拠点に活動し、ヨーロッパ各国を歴訪して楽譜の収集と指導法の視察を行った。1986年冬、メイン州バックフィールドにて逝去。

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画像出典元: 中村理平『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』(刀水書房、1993)
Franz Eckert (1852-1916)
フランツ・エッケルト
明治16〜19(1883〜1886)
管弦楽、和声、楽曲制作

1852年、プロイセン王国シレジア(シュレージエン)に生まれる。ヴィルヘルムスハーフェン海軍軍楽隊の海軍軍楽隊長。明治12(1879)年から同32(1899)年の滞日中、海軍軍楽隊、音楽取調掛、宮内省式部職、陸軍戸山学校などで洋楽教育に関わる。明治13(1880)年、奥好義・林廣守作曲、林廣守撰定の「君が代」に伴奏、和声を付けた。音楽取調掛には明治16(1883)年2月〜同19(1886)年3月に在職し、管絃楽の指導、唱歌集の箏2面編曲、J.シュトラウスの《ピチカート・ポルカ》の箏3面編曲などを行った。
一度帰国したのち朝鮮半島に渡り、1901年に李王家楽長に就任。大韓帝国の軍楽隊の基礎を築く。1916年、京城にて逝去。

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Guillaume Sauvlet (Willem Sauvlet)(1843-1902)
ギヨーム・ソーヴレー(ウィレム・ソーブレー)[ギョーム・ソーブレット]
明治19〜21(1886〜1888)
(音楽取調掛)唱歌、洋琴、風琴、絃楽、管楽、和声、楽曲制作の理論および実地

1843年、オランダのミデルブルグに生まれる。音楽一家の一員であり、1862年5月3日付のオランダ紙記事には、父の経営する音楽会社のピアニストとして名が挙がる。
明治18(1885)年8月、居留地を巡業していた英国のマスコット歌劇団の指揮者兼伴奏ピアニストを引き受け、初来日。さらに同年11月、エミリー・メルヴィル歌劇団との仕事を引き受けて再来日し、以後4年間、家族とともに横浜へ滞在した。
明治19(1886)年4月1日からエッケルトの後任として音楽取調掛に雇われ、唱歌、洋琴、風琴、絃楽、管楽、和声、楽曲制作の理論および実地を担当。音楽学校教師のほか横浜合唱協会の専任指揮者もつとめ、暑中休暇を利用して神戸で演奏会を開くなど、教育者・演奏者として精力的に活動していた。演奏会ではピアノの他にヴァイオリン、声楽も披露し、自作曲や編曲も数多くプログラムに組み込んでいる。
音楽学校退職後、アメリカに転居。1890年のハワイにおける『ミカド』上演の指揮、オランダ時代から親交のあるヴァイオリニストのエドゥアルト・レメーニとの共演など、演奏活動を続けている。
1902年、テキサス州エルパソにて逝去。

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Mrs. Dixon (?-?)
ディクソン夫人 [ヂクソン夫人]
明治21〜22(1888〜1889)
英語

イギリス出身。明治21(1888)年、東京音楽学校が当初雇うはずだった教師「ミス、ローサ、エル、エストルデー」が病気のため、急遽嘱託となる。月・水・金に2時間ずつ英語の授業を受け持った。次の教師が来るまでの代理という形だったため、9月末から翌年6月末という在職期間になった。

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Rudolf Dittrich (1861-1919)
ルドルフ・ディットリヒ [ルードルフ・ヂツトリヒ]
明治21〜27(1888〜1894)
ヴァイオリン、洋琴、風琴、和声学、唱歌

1861年、オーストリア・ハンガリー帝国に生まれる。ウィーン音楽院に学び、オルガンをアントン・ブルックナーに、ヴァイオリンをヨゼフ・ヘルメスベルガーに師事した。
明治21(1888)年、日本の招きに応じて28歳で妻とともに来日。東京音楽学校の最初期に西洋音楽の専門教育を行い、数々の日本初演を手がけた。なお明治20年代の東京音楽学校では歌曲・合唱曲のほとんど全てを日本語で歌っており、たとえばJ.S.バッハの《ミサ曲ロ短調》中の「クルチフィクス(十字架にかけられ)」は「富士登山」の作歌で歌われている。《大日本帝国憲法発布之頌》(伊澤修二作歌)等を作曲したほか、『小学唱歌集』や日本の旋律への和声づけを行った。
オーストリア帰国後の1894年および1895年には、日本音楽研究と和声付けの成果を《日本楽譜》2冊として出版している。1901年に王室専属オルガニストとなり、またヘルメスベルガー四重奏団のヴィオラ奏者として活躍。1906年にはウィーン音楽院教授に就任した。1919年、ウィーンにて逝去。

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Johanna Bertha Maria Tietzé (?-?)
アンナ・ベルタ・マリア・ティーツェ[ヨハンナ・ベルタ・マリア・チーチェ]
明治22~24(1889~1891)
唱歌

ドイツのベルリン出身。日本の国会や省庁の建物の設計・建設のために召集された建築技師オットカー・ティーツェの妻。明治22~24(1889~1891)年の間、東京音楽学校で唱歌を担当した。

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Emily Sophia Patton (1831-1912)
エミリー・ソフィア・パットン [エミリー・ソフヒャ・パットン]
明治27~28(1894~1895)
唱歌、洋琴

1831年、イギリスのロンドンに生まれる。12歳でニュージーランドに、2年後にオーストラリアへと移住。1879年頃より、イギリスで考案され当時普及していた指導法「トニック・ソルファ」をラファエル・ベンジャミンらに師事し、その後自らも実践。
明治22(1889)年の来日後、居留地在住の外国人を主な対象としてトニック・ソルファに基づく教育活動を始める。横浜のフェリス和英女学校の音楽教師ジュリア・A・モールトンが評判を聞いて門下生となったことで、フェリス和英女学校の音楽教育には1920年代初期までトニック・ソルファが採用されていた。のちに東洋音楽学校を創立する鈴木米次郎も教え子である。
明治27(1894)年10月、オーストラリア時代の門下生ブロクサムとともに東京音楽学校へ雇われたが、同28(1895)年4月までという約半年の雇傭となった。その後10年間上海で活動した後、横浜で80歳の生涯を終えた。

Ada Breatice Bloxham
Ada Beatrice Bloxham (1865-1956)
アダ・ベアトリス・ブロクサム[アーダー・ビートリース・ブロックスハム]
明治27~28(1894~1895)
唱歌、和声

1865年7月13日、オーストラリアの東メルボルンに生まれる。エミリー・パットンからトニック・ソルファ法に基づく音楽教育を受け、彼女とともに東京音楽学校へ採用された。明治27(1894)年10月2日から翌年7月10日まで、東京音楽学校教務嘱託として唱歌と和声を指導。退職後も1899年まで日本でメゾソプラノのソリストとして活動し、東京や横浜で演奏会に出演した。

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Raphael von Koeber (1848-1923)
ラファエル・フォン・ケーベル [ラッフェール・フォン・コィベール]
明治31〜大正3(1893〜1914)
ピアノ、音楽史

1848年、ロシア帝国のヴォルガ河畔ニジニ・ノヴゴロドに生まれる。モスクワ音楽院、イエナ大学、ハイデルベルク大学にて音楽、博物学、哲学を修めたのち、明治26(1893)年から大正3(1914)年までお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、美学、美術史を教えた。
明治31(1898)年から大正3(1914)には東京音楽学校でも教育と演奏に携わった。
明治36(1903)年、日本におけるオペラ初演であるグルック「オルフォイス」上演の際には、指揮を担当したノエル・ペリとともに学生を指導し、ピアノ伴奏を行った。優秀な学生の欧米留学の必要性を意見した人物でもあり、瀧廉太郎のドイツ留学に際しては、ライプツィヒ音楽院あてに自ら推薦状を書いている。
第一次大戦勃発により帰国の機会を逸し、大正12(1923)年、横浜で生涯を終えた。

関連資料
◆関連リンク:「東京音楽学校1901年秋 瀧廉太郎の留学」

lec10
Noël Péri (1865-1922)
ノエル・ペリ[ノーエル・ペリー]
明治32〜37(1899〜1904)
オルガン、和声学、楽式一班、作曲

1865年、フランスのヨンヌに生まれる。パリの外国宣教会付属神学校を卒業後、1888年に宣教師として来日。名古屋、松本で語学教育とカトリックの布教に従事したのち、1896年に東京に移る。暁星学校の音楽教師としてつとめる傍ら、邦文雑誌『天地人』創刊、仏文書店「三才社」を創立した。
明治32(1899)年、東京音楽学校に招聘。明治36(1903)年、彼の指揮とケーベルのピアノ伴奏のもと、グルック「オルフォイス」が上演された。日本人による最初のオペラである。上演までの経緯を伝える『美術新報』第36号(明治36年8月20日)の記事によれば、学生有志によるこの自主企画に対し、ペリは「早朝より日暮まで學校にありて音樂と所作の指揮をなし」、「身を捧げて」尽力したという。明治37(1904)年、依願解嘱託により音楽学校を離れる。
1907年、仏領インドシナのハノイへ渡り、東洋学院およびインドシナ大学で研究生活を送る。1922年、ハノイにて死去。
数多くの著作を発表した能研究をはじめ、文学、仏教、哲学と幅広い分野の論文を残している。なお東京芸術大学附属図書館には、音楽学校における楽式の講義録草稿『楽式一班』が保存されている。

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August Junker (1968-1944)
アウグスト・ユンケル
明治32〜大正1(1899〜1912)
管弦楽、実技一般(室内楽、指揮法、唱歌、ヴァイオリン、ヴィオラ、ヴィオロンセロ、オルガン、作曲)

1868年、北西ドイツのシュトルベルクに生まれる。ヴァイオリニスト、指揮者。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを経て来日。ケーベルの推薦により、明治32(1899)年から大正1(1912)年まで東京音楽学校教師となり、音楽学校にいわゆるフル・オーケストラを初めて組織して、シューベルトの《未完成交響曲》などの管弦楽曲ほか、ケルビーニの《レクイエム》、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》のような合唱付き管絃楽曲を初演した。幸田延・幸姉妹、ヴェルクマイスターケーベル等と室内楽を演奏。ユンケルの熱血指導については、山田耕筰の自伝他で語りぐさとなっている。1944年、東京にて逝去。

◆関連リンク:「東京音楽学校1912年 わが国オーケストラの父、ユンケル」

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画像出典元: 中村理平『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』(刀水書房、1993)
Anna Laehr (1848-?)
アンナ・レール[ラール、ラー]
明治33〜38(1900〜1905)
ピアノ

1848年、ドイツのブラウンシュヴァイクに生まれる。履歴書によれば、父からピアノの手ほどきを受け、その後ベルリンで研鑽を積んだという。
明治12(1879)年に31歳で初来日し、エッケルトの意向を受けて、海軍軍楽隊のピアノ教師となった。海軍卿川村純義の紹介により、鹿鳴館における上流階級の社交ダンス練習会「舞楽会」のピアノ伴奏も勤めており、ダンスの新作を披露して賞賛をうけたとの記事も残る(明治19(1886)年1月24日・2月4日付読売新聞)。
明治23(1890)年3月31日付で海軍軍楽隊教師を辞し、その後10年間の動向はわかっていない。ただし唯一残る肖像写真は、明治32(1899)年にアメリカから日本の海軍軍楽隊楽長宛に送ったものと伝えられている。
52歳の誕生日を2ヶ月後にひかえた、明治33(1900)年1月4日付で東京音楽学校ピアノ嘱託講師となる。最初の報酬は年俸360円、着任から約2ヶ月後に600円となるなど変動が大きく、一時期はかなりの数のレッスンを受け持ったと考えられるが、生徒の談話や彼女自身の演奏記録は残っていない。明治38(1905)年3月31日に依願退職。

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Hermann Heydrich (1855-?)
ヘルマン・ハイドリヒ
明治35〜42(1902〜1909)
ピアノ、管弦楽合奏

1855年、プロイセンのノイエンブルクに生まれる。ベルリン帝室附属音楽学校でピアノ、楽理、作曲を学び、卒業後はアッピングハム学校やロンドン府音楽学校で勤務した。
明治35(1902)年1月11日、東京音楽学校に雇い入れられ、当初は1年1200円が支給されていた。
ハイドリヒは曲の形式を分解して教え、生徒がよく了解しなければ演奏のレッスンを始めなかったという。また、弟子の一人である小松耕輔は、メヌエットのレッスン時に「どんな踊りか検討がつかなかったら先生はいきなり立って踊り、一緒に踊れといって部屋中ぐるぐる踊ったことがある」と語っている。
明治42(1909)年に東京音楽学校を満期退職。

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Marie Kayser (1867-?)
マリー・カイゼル
明治37~38(1904〜1905)
独唱歌

ヴュルツブルク音楽学校に学んだ後、ワーグナーの姪ヤハマン夫人(Johanna Jachmann-Wagner、メゾソプラノ歌手)に歌劇の指導を受け、バイロイトの舞台に上がった。リヒャルト・シュトラウスに従ってワイマール歌劇場で「ヘンゼルとグレーテル」グレーテル役を演じるなど主要都市の歌劇場で歌った。
明治37(1904)年9月から同38(1905)年2月にかけて、東京音楽学校で独唱歌の指導を担当。『帝國文學』第11巻第1号の「樂界時言」に、快活で謹直な性格で、良い教師であったとの記述が残っている。

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Charlotte Fleck (1878-?)
シャルロッテ・フレック [シァロッテ、シアロッテ]
明治40~41(1907~1908)
独唱歌、声音訓練

1878年、プロイセンのシュテッティンに生まれる。10歳の頃にリリー・レーマン女史に師事したのち、ベルリンシュテルン音楽院(現在のベルリン芸術大学の一部)に入学。卒業後は同音楽院で教える傍ら演奏活動を行い、1906年にベルリン歌劇場と契約している。
明治40(1907)年、母校のホルレンデル校長の紹介により東京音楽学校に赴任し、独唱歌、声音訓練を担当。当初の契約期間は明治43(1910)年までだったが、個人的事情により明治41(1908)年7月28日付で依願退職した。

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Heinrich Werkmeister (1883-1936)
ハインリヒ・ヴェルクマイスター[ハインリッヒ・ウェルクマイステル]
明治40~大正10、昭和6~11(1907〜1921、1931〜1936)
チェロ、ピアノ、唱歌、コントラバス

1883年、ドイツのバルメンに生まれる。ベルリン王立高等音楽学校でチェロ、室内楽を学び、卒業後はベルリン音楽院で後進の指導にあたりながらチェロ奏者としても活動した。
明治40(1907)年12月6日付で東京音楽学校ピアノ嘱託講師。大正10(1921)年12月31日付で退任し、東京高等音楽院(現在の国立音楽大学)や東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の教員を務めた。昭和6(1931)年4月27日より教務嘱託として再度東京音楽学校の教壇にたつ。チェロおよび作曲の実践と演奏をおこなった他、山田耕筰、信時潔、近衞秀麿など多数の音楽家を育成した。
昭和11(1936)年3月31日、病気を理由に辞任。同年8月16日に東京にて逝去。

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Rudolph Ernest Reuter (1888-?)
ルドルフ・ロイテル
明治42~大正1(1909〜1912)
ピアノ、作曲

1888年、ニューヨークに生まれ、15歳でプロテスタント教会のオルガニストとなる。1906年ベルリン王立高等音楽院に入学し、ピアノをリスト門下のK.H.バルト、対位法とフーガをK.L.ヴォルフ、管弦楽法をM.ブルッフに師事。明治42(1909)年に来日し、東京音楽学校で大正1(1912)年までピアノと作曲を担当。同時代の作曲家E.マクダウェル(米)やC.ドビュッシー(仏)など先駆的なレパートリーを紹介した。「四つ葉のクローバー」(1907)の作曲者。
1914年の帰国後は、シカゴで音楽教師として勤める傍ら、国内各地を巡演してアメリカの作曲家の作品紹介に尽力した。晩年にはアメリカ音楽家協会会長を務めている。没年不明。

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Hanka Schjelderup Petzold (1862-1937)
ハンカ・ペツォルト[ペツオルド、ペッツォルト、ペツォールド]
明治42~大正13(1909~1924)
ピアノ、唱歌

1862年、ノルウェーのクリスチャンサンで生まれる。兄は作曲家のゲルハルト・シェルデルップ。子どもの頃に母からピアノの手ほどきを受け、当時高名なヴァイオリニストであったオーレ・ブル主催演奏会にてデビュー。その後、パリではトメ、ドラボルド、ガエルに、またワイマールではリストに師事した。この頃声楽を志すようになり、パリでマルケージに、ドレスデンでオルゲニに師事。バイロイトでコジマ・ワーグナーよりワーグナーのオペラを学んだ。その後、ヨーロッパ各地でピアニスト兼オペラ歌手として成功をおさめた。
明治42(1909)年、ヴェルクマイスターからの紹介で、熱心な仏教研究家であった夫のブルーノ・ペツォルトと共に来日し、東京音楽学校で声楽の指導に当たった。柳兼子、三浦環、永井郁子、船橋榮吉、矢田部勁吉、關鑑子ら、後世日本楽壇の指導者となる多くの声楽家を育て、「日本の声楽の母」と称される。グリーグのピアノ曲や歌曲を披露するなど、ノルウェーを含むヨーロッパの音楽を日本に紹介することに貢献した。1937年に逝去。夫とともに比叡山に葬られている。

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Paul Scholz (1889-1944)
パウル・ショルツ
大正2~11(1913〜1922)
ピアノ

1889年、ドイツのライプツィヒに生まれる。1912年ベルリン高等音楽学校を卒業。大正2(1913)年に来日し、東京音楽学校教師に就任。同年10月に奏任に準ぜられる。また、1920年には高等官五等に準ぜられる。多くの弟子を育て、大正11(1922)年に東京音楽学校を退職。その後も東京に滞在し、30年余りにわたって日本のピアノ教育に貢献した。1944年、東京にて逝去。

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Gustav Kron (1874-?)
グスタフ・クローン[グスターフ]
大正2〜14(1913〜1925)
ヴァイオリン、唱歌、管絃楽

1874年、ドイツのブラウンシュヴァイクに生まれる。ドレスデン王立音楽院に学び、ヴァイオリン、ピアノ、音楽理論を修める。ハンブルクの楽友協会のソリスト、カペルマイスターとなり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のソリストとしてA.ニキシュの欧州公演に同行した。
ユンケルの後任として、大正2(1913)年から同14(1925)年までヴァイオリン、唱歌、管絃楽を担当。多くのベートーヴェン作品を初演した。
◆関連リンク:「東京音楽学校11924年ベートーヴェン「第九」の本邦初演」

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Joseph Hollmann (1852-1927)
ヨゼフ・ホルマン
大正12年度(1923)
チェロ

1852年、オランダのマーストリヒトに生まれ、ブリュッセル王立音楽院でチェロと音楽理論を学ぶ。1880年代初頭にマイニンゲン劇場管弦楽団で演奏。1887年にパリに定住し、ソリストとしての地位を確立。大正12(1923)年に演奏旅行で中国、次いで日本を訪れる。同年5月から8月にかけて、東京音楽学校で教鞭をとった。
頻繁に共演していたサン=サーンスから、チェロ協奏曲第2番作品119を献呈されているほか、彼自身も作曲家としてチェロのための作品を複数残している。1927年パリにて逝去。

lec22
Willy Bardas (1887-1924)
ウィリー・バルダス
大正12〜13(1923〜24)
ピアノ

1887年、オーストリアのウィーンに生まれる。ベルリンにおいてアルトゥール・シュナーベルとマックス・ブルッフの下で研鑽を積み、ピアニストとして活動。大正12〜13(1923〜24)年、東京音楽学校にて教鞭を執った。著名な門弟には諸井三郎がいる。
1924年、イタリアのナポリで逝去。1927年には、遺稿『ピアノ技巧の心理学 Zur Psychologie der Klaviertechnik』が師・シュナーベルの序文を付されて出版された。

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Margarete Netke-Löwe (Netke-Loewe) (1884-1971)
マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ [レーヴエ、レーウエ、レーウェ]
大正13~昭和6(1924~1931)、昭和21~25(1946~1950)
唱歌、独唱歌

1884年、ドイツのブレスラウに生まれる。フランクフルト、ベルリンで声楽を学び、さらにヨーロッパ各地で研鑽を積む。ベルリンを始めオーストリア、オランダ、スウェーデン等で声楽家として活躍。第1次世界大戦の際ブレスラウに戻り音楽教師となる。
大正13(1924)年、東京音楽学校に招かれ来日。東京音楽学校講師、宮城学院女子専門学校教師、自由学園教師、東京芸術大学講師を歴任。東京芸術大学退職時には「外国人名誉客員教授」の称号を与えられた。
伊藤武雄、木下保、佐藤美子、立川清澄、田中信昭、長門美保、四谷文子など多くの声楽家を育て、ドイツ芸術歌曲の歌唱法を伝えた。著書に「シューベルト歌曲集」等がある。
来日してから1971(昭和46)年に東京で亡くなるまでの後半生を日本で送った。

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Felix Dyck (1893-?)
フェリックス・ディック [デュック]
大正14(1925)年度
管弦楽、合唱、ピアノ

1893年1月14日、ドイツに生まれる。1906年にベルリンのシャルウェンカ音楽大学に入学、ピアノや和声学を学び1909年に卒業した。1910年、パリの国立音楽学校に入りピアノを修め、1912年に卒業。1913年からヨーロッパ各地でピアノの演奏活動をおこなう。1922年からはバタヴィア(現在のジャカルタ)やジャワでピアノの教育・演奏をおこなった。
1925(大正14)年4月20日付けの文書(『外国人教師関係書類 大正13〜昭和11年』、大学史史料室)において、「大正14年4月21日より大正15年3月31日まで」嘱託することが記載されているが、同年9月1日付けの文書で「都合ニ依リ本年八月三十一日限リ嘱託ヲ解除」することが記されている。

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Joseph Kaganoff (Josef) (Leonid Kochanski) (1893-1980)
ヨセフ・カガノフ(レオニード・コハンスキー)
大正14~昭和6(1925〜1931)
ピアノ

1893年、ロシアのオーレルに生まれる。長兄パウルはヴァイオリニストで、次兄もモスクワ音楽院でチェロの教授を務めた。
1906年にライプツィヒへ移り、1910年にドイツの音楽学校を卒業。1919年からは師のレオニード・クロイツァーの助手を務めるかたわら、ドイツや北アメリカでレオニード・コハンスキーの芸名で演奏活動をおこなう。東京音楽学校では大正14~昭和6(1925〜1931)年に教師を務めた。その後、パリおよび武蔵野音楽大学で教授活動をおこない、1980年1月12日、フランスのエール・シュル・ラドゥールにて逝去。
門下生に福井直俊、井口基成・秋子・愛子、舘野泉、中村紘子、諸井三郎などがいる。親交のあった豊増昇によれば、教授法が的確で教師として優れていたという。

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Chales Lautrup (1894-?)
チャーレス・ラウトロプ [シャーレス・ラウトルップ、シャールス・ラウトルップ、チャールズ・ラウトルップ]
大正15〜昭和6(1926〜1931)
唱歌、管弦楽

1894年コペンハーゲンに生まれ、コペンハーゲン大学とベルリンのシュテルン音楽学校にて、ピアノ、管絃楽、指揮法を学ぶ。1923年デンマーク宮廷歌劇場長に就任。
大正15(1926)年東京音楽学校に招かれ、昭和6(1931)年6月までハイドン、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲の他、大礼奉祝演奏会や御前演奏会で指揮者を務めた。

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Robert Pollak (1880-1962)
ロベルト・ポラック [ローベルト・ポラーク]
昭和5~12(1930〜1937)
ヴァイオリン

1880年、オーストリアのウィーンに生まれる。ライプツィヒ音楽院で音楽理論を、ジュネーブ音楽院にてヴァイオリンを学ぶ。ローザンヌ音楽学校高等科、モスクワ音楽院、新ウィーン音楽院高等科、サンフランシスコ音楽院高等科で教員を務めた。
昭和5(1930)年、東京音楽学校に着任。同12(1937)年にはアメリカへ渡りロサンゼルス音楽院で教員を務めた。1962年、スイスにて逝去。

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Klaus Pringsheim (1883-1972)
クラウス・プリングスハイム
昭和6~12(1931〜37)年
作曲法、合唱歌、管弦楽

1883年、ドイツのフェルダフィングに生まれる。ミュンヘン大学では哲学と音楽学を学んだ。1906年にウィーン宮廷歌劇場の副指揮者となった後、複数の劇場で音楽監督、指揮者を歴任。
昭和6(1931)年9月8日来日、東京音楽学校に着任した。同校では作曲専攻の学生を指導するとともに、演奏会でもマーラーやブルックナーの交響曲初演で指揮者を務めるなど活躍した。
昭和12(1937)年7月31日、契約満了につき退職。タイ、アメリカへ渡り音楽活動を続け、1972年12月7日、東京にて逝去した。

◆関連リンク:「東京音楽学校1932年 プリングスハイムと作曲部の創設」

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Leo Sirota (1885-1965)
レオ・シロタ
昭和6~19(1931〜44)
ピアノ

1885年、ウクライナのキエフに生まれる。ユダヤ系ピアニスト。キエフとペテルブルクの音楽院に学んだ後、ウィーン音楽院にてフェルッチョ・ブゾーニに師事。演奏歴を重ねて来日し、昭和6〜19(1931〜1944)年東京音楽学校の傭外国人教師をつとめ、東京音楽学校内外で演奏と教育に活躍。大島正泰、藤田晴子、園田高弘、永井進、豊増昇ら戦後のピアノ界を牽引するピアニストを育成した。
1946年に渡米し、セント・ルイス音楽院教授となる。1963(昭和38)年には門下生に呼ばれて再来日し、日比谷公会堂にて最終公演を行った。
1965年、ニューヨークにて逝去。

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Maria Toll (1899-?)
マリア・トル
昭和7~13(1932~1938)
独唱歌

1899年、ベルリンに生まれる。ベルリン国立音楽大学を国家認定の声楽教師として卒業。ドイツ、スイスにて演奏活動をおこなうかたわら声楽を教えていた。
昭和7年(1932年)、ネトケ=レーヴェの後任として東京音楽学校に赴任し、昭和13(1938)年まで独唱歌を担当。長門美保、松田トシらを教えた。演奏会で和服を着て日本歌曲を歌うことでも人気を博したとの逸話が残っている。

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Hermann Wucherpfennig (1884-1969)
ヘルマン・ヴーハープフェニヒ [ウーハーペニヒ、ヴーハーペニヒ、ヴーハープフェン二ヒ]
昭和7~19(1932~1944)、昭和21~28(1946~1953)
独唱歌

1884年、ドイツのミュールハウゼンに生まれる。デッサウの宮廷歌劇場(1905~1909年)、ニュルンベルク市立歌劇場(1909~1912年)、デュッセルドルフ歌劇場(1912~1916年)、ベルリンのシャルロッテンブルク歌劇場(1916~1922年)にて専属歌手として活躍したのち、1922年ベルリン大学にて哲学博士の学位を取得。同年、カールスルーエ国立歌劇場付きとなり、同地で声楽教師および演奏会歌手として活動。
昭和7(1932)年、ネトケ=レーヴェの後任として東京音楽学校に着任。昭和19(1944)年3月に契約期間満了につき一旦解雇されたが、昭和21(1946)年9月より再び雇い入れられた。同年には武蔵野音楽学校でも教鞭を執った。昭和27(1952)年には都民劇場主催の「フィガロの結婚」を演出。
昭和28(1953)年に東京藝術大学を退職、帰国。昭和35(1960)年に来日し、二期会オペラ「マルタ」を演出。
東京音楽学校では、三宅春惠,柴田睦陸,伊藤武雄,薗田誠一,平原壽惠子,川崎静子,佐々木成子などを育てた。1969年逝去。

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Theron Ellsworth Johnson (Buster Johnson) (1885-1960)
セロン・エルワース・ジョンソン (バスター・ジョンソン)
昭和11~12(1936〜37)
トロンボーン、サキソホーン、クラリネット

1885年、アメリカのオハイオ州ゼーンズビルに生まれる。ジャズ・トロンボーン奏者として活躍し、本名よりも“バスター”・ジョンソンの名で知られている。1918年から1919年にかけて、ヘンリー・ブッセ(トランペット)、ガス・ミューラー(クラリネット)とともに《Wang Wang Blues》を作曲。
数多くの楽団で活躍したのち、昭和11(1936)年9月から同12(1937)年3月にかけて、教務嘱託として東京音楽学校で教鞭をとった。滞在中は、日本の衣服や食生活にも非常に馴染んだとの逸話が残っている。1960年、カリフォルニア州ローズビルにて死去。

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Paul Weingarten (1886-1948)
パウル・ヴァインガルテン [ワインガルテン]
昭和11~13(1936〜1938)
ピアノ

1886年、チェコのブリュン(現在のブルノ)に生まれる。ウィーン音楽院、ウィーン大学でピアノや音楽理論を学ぶ。ウィーン音楽院、オーストリア国立音楽単科大学で教授活動をおこない、ドイツ、フランス、スペイン、オランダ、イギリス、オランダ領インドネシアなど世界各国で演奏活動を展開した。昭和11(1936)年、東京音楽学校に着任し、永井進などを育てた。同13(1938)年、オーストリアに帰国。1945年にはウィーン音楽院で再び教鞭をとった。1948年にウィーンにて逝去。

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Willy Frey (1907-?)
ウィリー・フライ
昭和11~18(1936〜43)
ヴァイオリン

1907年、ポーランドに生まれる。ドイツでヴィリー・ヘスに師事し、その後もドイツで活躍していたが、しだいにナチスの圧力を受けるようになる。来日直前は、ベルリンのユダヤ文化協会管弦楽団(ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮)のコンサートマスターをつとめていた。
昭和11(1936)年に来日し、東京音楽学校嘱託として多くの後進を指導。また、新交響楽団へのローゼンシュトック招請に協力し、彼の指揮によりベートーヴェン、ブラームスなど数々のヴァイオリン協奏曲を演奏した。昭和13(1938)年12月には、前年にドイツで発見されたばかりのシューマンの協奏曲ニ短調の日本初演をつとめている。
終戦後間もなくアメリカに移住しており、没年は不明。

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Walter Schroeter (1895-?)
ワルター・シュレーター
昭和11〜12(1936〜37)
ホルン、管弦楽部(ホルン)

1895年、ドイツのブレスラウに生まれる。1914年、ヴィルスドルッフ音楽学校を卒業し、軍のホルン奏者になってまもなく第一次世界大戦が勃発。戦地において何度も負傷したという。第一次大戦後は、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするオーケストラにおいて活躍。1925年以後の11年間は、上海交響楽団ソロホルン奏者の地位を得ている。
昭和9(1934)年に初来日。近衛秀麿の指揮で、新交響楽団とともにリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番を日本初演した。また音楽学校では、乘杉嘉壽と学生たちの前でモーツァルトのホルン協奏曲を演奏したほか、2回のレッスンを行ったという。2年後の昭和11(1936)年、初の管楽器担当の外国人教師となる。離職以後の活動については不明。

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Hans Schwieger (1906-2000)
ハンス・シュヴィーガー [シュビーガー]
昭和12〜13(1937〜38)、昭和49〜51(1974〜76)
作曲法、合唱、管弦楽

1906年、ケルンに生まれる。1932年よりマインツ州立歌劇場の総監督を務めたが、1934年にユダヤ人のエリザベス・ブレーメンダールと結婚したためにナチス当局にマインツの職を罷免された。 昭和12〜13(1937〜38)年に東京音楽学校で教員を務めた後に渡米したが、敵性外国人の嫌疑をかけられて一時拘留された。1944年にアメリカの市民権を取得。
1944年から1948年までフォートウェイン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、1948年から1971年までカンザス市フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。昭和49(1974)年10月から同51(1976)年9月まで、東京藝術大学音楽学部に在職した。
2000年、フロリダで逝去。

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Roman Dukstulsky (Roman Dukson) (1901-?)
ローマン・ドゥクストゥルスキー(ロマン・ドゥクソン)
昭和12~18(1937〜43)
チェロ

1901年、ラトビアに生まれる。1918年から1921年まで、ドイツでオットー・ニーデルマイヤー、ユリウス・クレンゲルに師事。1921年にストックホルム管弦楽団に招聘され、1924年まで主席チェロ奏者をつとめた。また1929年から1936年にかけては、ソロ奏者・室内楽奏者としてストックホルム放送交響楽団に所属した。1931年にスウェーデンに帰化。ヘルシンキ(フィンランド)、オスロ(ノルウェー)、リガ(ラトビア)など各地の都市で演奏している。
昭和12(1937)年に来日。先んじて来日していたピアニストのレオ・シロタらとともに軽井沢で室内楽の練習をしているほか、上京した際はシロタ邸で関係者への紹介演奏会がおこなわれている。同年9月には東京音楽学校の教務嘱託となり、昭和18(1943)年まで在職。

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Alexander Mogilevsky (Alexsandr)(Moguirewsky, Mogilevskii) (1885-1953)
アレキサンダー・モギレフスキー [アレクサンドル]
昭和12~19(1937~44)、昭和23~24(1948~49)
ヴァイオリン、室内楽

1885年、ロシアのオデッサに生まれる。1909年のペテルブルグ音楽院卒業後、弦楽四重奏団を結成し、ソリストとしても活躍。モスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校、モスクワ音楽院、パリのロシア音楽院などで教鞭をとった。
1926年11月に来日して演奏旅行をおこない、1927年3月〜12月には東京高等音楽院(国立音楽大学)講師をつとめる。1930年に再来日し、以来、日本に居住して演奏活動を行いながら帝国音楽学校で教鞭をとる。昭和12〜19(1937〜44)年、昭和23〜24(1948〜49)年に東京音楽学校に在職。ヴァイオリン教育に携わるとともに、ロシア音楽を紹介した。1953年、東京にて逝去。

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Leonid Kreutzer (1884-1953)
レオニード・クロイツァー
昭和13~19(1938~44)、昭和21~25(1946~50)
ピアノ

1884年、ロシアのサンクトペテルブルクでユダヤ系ドイツ人のもとに生まれる。サンクトペテルブルクでA.グラズノフ、A.エシポワ、ライプツィヒでA.ニキシュに師事。ベルリン音楽大学教授を経て、1931年に初来日。昭和13(1938)年、東京音楽学校にて教鞭をとるも、昭和17(1942)年にナチスに国籍を剥奪され、昭和(1944)年には公職追放、演奏活動も停止となり、昭和20(1945)年5月17日より終戦までは軟禁される。昭和21(1946)年に復職し、昭和25(1950)年まで音楽学校および東京芸術大学音楽学部にて後進の指導に当たった。昭和28(1953)年、リサイタル中に心筋梗塞で倒れ、東京にて逝去。
門下生にカガノフ(コハンスキー)、井口秋子、笈田光吉、織本豊子(クロイツァー豊子)、高折宮次、伊達純、中山靖子、室井摩耶子ら。昭和37年クロイツァー記念会が設立され、昭和45年以来クロイツァー賞が授与されている。

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Helmut Fellmer (1908-1977)
ヘルムート・フェルマー
昭和13~20(1938〜1945)
作曲、合唱、管弦楽

1908年、ドイツのドレスデンに生まれる。ザクセン国立管弦楽学校を卒業し、ワイマール市やアルテンブルク市の劇場で指揮活動をおこなった。
昭和13(1938)年4月13日付けで東京音楽学校の講師となる。昭和15(1940)年12月8日に開催された紀元2600年記念祝典にて、R. シュトラウスの《祝典音楽》を指揮。1945年8月31日、東京音楽学校解雇、武蔵野音楽学校の講師となる。1947年にドイツへ帰国し、以後はカッセル歌劇場、バイロイト音楽祭、ヴッパータール市立歌劇場、レームシャイト市立交響楽団で指揮者を務めた。1958(昭和33)年に東京芸術大学への復職を希望し、大学側も条件を提示したが、実現には至らなかった。1977年にハンブルクで逝去。

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Ria von Hessert(1893~1989)
リア・フォン・ヘッセルト [ヘッサート]
昭和13~20(1938~1945)、昭和28~32(1953~1957)
唱歌

1893年、ドイツのヘッセン州ダルムシュタットに生まれる。アルト歌手。高等学校卒業後、声楽科の母の指導を受けたのち、A.ヴィーガント(シュトックハウゼンの弟子)、G.フェルグッソン、宮廷歌手のラーツ=ブロックマンとコルストに師事。ベルリン大学で音楽学を聴講、ピアノを宮廷楽長フリードリッヒ・レーボック(リストの弟子)に学ぶ。第1次大戦時には看護師として医療活動に携わり、終戦後から公開演奏や声楽指導を行う。昭和13~20(1938~1945)年に東京音楽学校で唱歌の授業を担当した。昭和28~32(1953~1957)年にも東京芸術大学音楽学部で声楽を担当した。
1989年、ベルリンにて逝去。

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Manfred Gurlitt (1890-1972)
マンフレート・グルリット [マンフレッド]
昭和14〜18(1939〜1943)
作曲、ピアノ、合奏

1890年9月6日、ベルリンに生まれる。ベルリンのクリンドヴォルト・シュエルヴェンカ音楽院においてハンス・ヘルマン、フー・ゴー・カウンに音楽理論を、モーリツ・マイエル・マールにピアノを学ぶ。また、マリア・ブライトハウプトにピアノを、エンゲルベルト・フンパーディンクに作曲を、カール・ムックに指揮を学ぶ。
1908年ベルリン宮廷歌劇場副指揮者に就任。以後バイロイト、ブレーメンなどのドイツ国内の歌劇場指揮者として演奏活動を行う。1925年オペラ「ヴォツェック」(ビュヒナー作)を作曲。
昭和12(1937)年、次年度の東京音楽学校教師に就任を打診され、承諾した。しかし、グルリットがユダヤ人の血を引くとナチスから伝えられた外務省が、彼の採用に難色を示したため、学校は翌年1月不採用を決定。ナチスの圧迫を逃れて昭和14(1939)年に来日。6月26日乗杉校長から文部省に再度採用を上申し、30日許可、東京音楽学校教師となる。同18(1943)年まで作曲、ピアノ、合奏を指導。指揮者としても活躍し、オペラの日本初演に数多く関わった。
昭和47(1972)年4月29日東京にて没。

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Dina Notargiacomo (1890-1957)
ディーナ・ノタルジャコモ [ディナ・ノタルヂャコモ]
昭和15~19(1940~1944)
唱歌

1890年、イタリアのフィレンツェに生まれる。ドラマティック・ソプラノ。ローマ王立サンタ・チェチリア音楽院で声楽を学び、卒業後、王立オペラ劇場でボーイト作曲『メフィストフェレ』に出演しデビュー。イタリア主要都市で演奏活動を行う一方、国王・女王・皇太后などの前で歌い、その後ヨーロッパをはじめ、チリ、フィリピン、上海などでも活動。昭和12(1937)年に初来日して演奏会を行い、昭和15(1940)年に東京音楽学校に着任。当初よりも契約を延長して同19(1944)年まで唱歌を担当し、それまでドイツ系統の声楽家を傭い入れてきた東京音楽学校にイタリア系の声楽技術を伝えた。1953年にイタリアへ帰国するまで多くの声楽科を育てた。1957年ローマにて逝去。